数日前になるが、通称「忠臣蔵」、ちやんと書くと「仮名手本忠臣蔵」。これの文楽の通し公演を観た。朝、昼、晩の三部制、朝十時半から夜の九時過ぎまでの三部を、エイヤッと、こつちも一日、通して観た。一夜明けた翌日は、さすがに疲れが出た。しかし、佳い見ものに堪能した余韻がまだ残つゐて、気持よく、「疲れた」と怠けてゐた。

　当り前のことだけれど、「見取り」でなく、通しで観るとよくわかることがある。
　その一つが加古川本蔵一家のこと。
　加古川本蔵は、例の松の廊下で塩冶判官が高師直を斬りつけたとき、塩冶判官を背後から抱きかゝへて止めた武士である。
　彼は赤穂の武士でも高師直の家臣でもないのに、このことから、彼ら一家の運命の歯車は狂ひ出す。
　彼の後添ひの妻の戸無瀬といふ女性、傍役のそのまた傍役の女性の心理が、じつによくわかり、あ、戸無瀬つて、こんなに聡明で思ひやり深くて、その上、決断力と行動力のある女のひとだつたのかと、靄が払はれたやうにくつきり見えて来たのには、おどろかされた。
　これは住大夫さんと錦糸さんの語りと三味線ももちろんだけれど、戸無瀬を遣つた文雀さんも、こはくなるような名演だつた。
　娘の婚約者である大星力弥に槍で突かれ、手負ひとなつた夫の長い述懐の間――それは主として由良之助と力弥に向けてであるが――、戸無瀬は大星親子の後に坐つてぢつとしてゐる。けれど、夫の一語一語にビリビリと反応してゐる、にもかゝはらずそれを表に出さない。くつと堪へてゐるその凄さ。それを動いたとも見えぬわづかな首の傾け、肩の線で表現してゐる凄さ。見てゐるほうも緊張した。

　文雀さん、この次は何をみせてくださるの。お身体に気をつけられて、これからも佳いものをいつぱいみせてくださいませ。

　法師蝉が啼いてゐる。――ツクツクボォシ、ツクツクボォシ。「オーシイツクツク」とか「オーシンツクツク」などと、聞きなし、真似たこともある。
　このせみの啼きごゑをはつきり「つくづく惜しい」と聴いたのは、お墓に入つてしまつた友人に逢ひに行つたときだつた。
　
　　ブバリアも薔薇も薄紅色を選ぶ供花らしき花は　
　　君に似合はぬ
　　これも供ふと境内の木槿（むぐげ）手折りつつ　
　　こゑあげてわらふ泣けさうになりて
　　灼けてにほふ墓石に落ちくる蝉のこゑ「つくづ
　　く惜しいつくづく惜しい」
　　ほそき頸すつくと立てて中洲にゐる一羽　正一
　　の化身ならずや

　踏切事故だつた。まだ四十代なかばだつた。
　
　

　メール機能が突然、働かなくなつてしまつた。さあ、こまつた。連絡の大半はメールに頼つてゐる。「メールでご返事します」といふことになつてゐるのや、メールでの送稿もある。あちらから、もたらされるはずの返事や連絡もある。こりや、まゐつたなあ。
　ほんの数年前まで、メールといふ、まことに便利な通信手段をもつてゐなかつた。それでも充分、用は足りてゐた。なのに、この困惑ぶりはどうしたことか。
　電気釜が使えなくなつても、お鍋とガスで御飯は炊ける。そのほうがおいしい。掃除も掃除器がなくても箒とはたきで、パタパタ、サッサッ。
　けれど、洗濯機がこはれてしまつて、盥でお洗濯が出来るか。出来るけれど、うーん、時間と労力をかんがへたら、こりや、無理だ。わたしの親の代までは盥に洗濯板でやつてゐたのに。クリーニング屋さんに頼むにしても、肌着類は出せないし、第一、かなりの出費になりさう。
　お風呂も薪で湧かせるか。ムリムリ。
　どんどん、便利に馴れ、怠惰になつてゆく。
「でも、メールはちがふのよ」「どこがちがふんだい」「えーとねえ……」「ふん、幾年か前はどうしてゐたんだい？　不便で骨が折れてどうしやうもない暮しをしてたのかい」「……」。

　ぼくが二代目曾我五郎時致、省略して五郎です。
　初代は今から八百年ほど前、親の仇を討ち取つたけれど討死にしてしまつた若者で、どうしてぼくがその二代目を襲名したのかよくわからない。ぼくと暮してゐるひとが、反体制派ということで勝手に二代目を名告らせたらしい。
　でも、この襲名、ぼくにはまんざらでもない。
　写真は、ねこがねずみを狙つてゐる図、実際はぼくのほうが大きい。