2007/09/12 義經のばか 
それまでに何度か吉野へ行つたことがあつたけれど、いつも冬だつた。みぞれに凍えながら、蕭條(せうでう)と枯れわたつた花なき吉野をあるいたり、西行庵のあたりで凍つた残り雪に足をとられさうになつたりした。 はじめて花を目的に行つたとき、吉野の山は、下(しも)は花吹雪、中(なか)は花ざかり、そして、上(かみ)は六、七分咲きだつた。「照りもせず曇りも果てぬ」と、古歌の一節が口ずさまれるやうな空だつた。こんなお恵みに与ることもあるのか、とおもつた。 吉野の櫻は山櫻。シロヤマザクラともいふと教はつた。花の一輪一輪、花びらのひとひらひとひらは、よく見れば萼に接してゐるところが、かすかな薄紅を点じてゐるけれど、白といつてよいだらう。けれど、花よりも一足早く芽吹いた葉のあざやかな紅を映して、しろくて、ものはかなげなはなびらはかすかな紅、さう、淡い鴇色を帯びる。それが風や陽の光の具合で、微妙に翳つたり発光したりする。見飽かなかつた。ただ、ぼうつと櫻をながめ、櫻のなかをさまよひ歩いてゐた。 あとで氣づいたのだけれど、ほかで見る櫻色の櫻――ソメヰヨシノや八重櫻など――を見てゐるときに浮かぶ、梶井基次郎の「桜の樹の下には」の名高い、
桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる! これは信じていいことなんだよ。
も、「花よりも濃くにほひ」出でて、「花かげの鬼とのみおもはれよ」と言ひ捨てて闇に走り去つた女(石川淳『修羅』)も、坂口安吾の『桜の森の満開の下』に吹く風も思ひ浮かばなかつた。それに何より花の吉野は、『義經千本櫻(よしつねせんぼんざくら)』の「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」の、まさしく舞台であることを思ひ出さなかつたとは、どうしたことだらう。吉野の櫻は、吉野の櫻として在る、と、おもつた。
『義經千本櫻』は源義經の都落ちから、吉野山に潜んでゐるのを知られるところまでを描いたものである。竹田出雲、三好松洛、並木千柳の三人の合作で、初演は延享四年(一七四七)、大阪の竹本座でだつた。 この人形浄瑠璃はたいへんな評判を呼び、わづか半年後には江戸で歌舞伎役者によつて上演されてゐる。今日でも、人気の高い演目の一つで、歌舞伎・文楽(人形浄瑠璃)ともに、よく上演されてゐる。 構成は全五段、それぞれが「口(くち)」「中(なか)」「切(きり)」の三つに分たれてをり、全部、通して観るとしたら何時間かかるか。前半後半を昼の部と夜の部に分ける、あるいは、二ヶ月にわたつての上演といふこともある。それでもカットされる場面があり、歌舞伎の場合、見どころがあつて人気もある一まとまりを切り取つて上演されることが多い。
実(げ)にも名高き大将と、末世に仰ぐ篤実の強く優(いう)なる其の姿。 一度にひらく千本櫻栄え久しき。
これは序段の口「院の御所の段」のしめくくりに謡はれる一節。まだ、義經が落魄の身となる前で、後白河院の御所に凱旋将軍として参上して退出するところである。『義経千本櫻』全篇で「千本櫻」といふことばが出てくるのはここだけである。 歌舞伎だと、舞台上手(かみて)の二階御簾内(みすうち)から義太夫三味線の音と太夫の声が降つてきて義經を讃へ、舞台では烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)姿も華やかな義經が見得をする。客席の少なからぬ「判官贔屓(はうぐわんびいき)」をよい氣分にしてくれるところである。残念なことに、文楽はともかく、歌舞伎ではめつたに上演されない。 「千本櫻」でもつともはなやかで夢見心地にさそはれるのは、「道行初音旅」であらう。『義經千本櫻』と銘打ちながら、舞台が一目千本という吉野の櫻に彩られるのは、ここしかない。 この場、幕が開いただけで、「はぁー」と溜息が洩れるうつくしさ、はなやかさである。背景は、満開の櫻で埋つた吉野の山のゆるやかな起伏を見渡してゐる感じ、蔵王堂の屋根がちひさく描き込まれてゐたりする。吊枝(舞台前面の上部からずらり吊り下げる造花や木の枝)まですべて櫻である。舞台の上手・下手で演奏する清元や竹本の太夫、お三味線まで、櫻模様の鴇色の肩衣(かたぎぬ)といふことが多い。
文楽と歌舞伎とどちらが好きと言はれると困つてしまふが、この「道行初音旅」にかぎり、わたしは歌舞伎をとる。 この一幕、靜御前と、義經の家来の佐藤忠信が、吉野に潜伏しているといふ義經を尋ねてゆく、その道中を舞踊劇にしたものなのだが、忠信はじつは狐なのである。本物の忠信が郷里にもどつてゐるのをさいはひ、狐が忠信に化けて靜の供をしてゐるのである。 彼の目的は何か。靜がたいせつに紫のふろしきに包み、背に負うてゐる鼓である。この鼓は、義經が後白河院から拝領し、都落ちの際、靜に預けた「初音」の銘あるもので、その鼓には彼の父母の皮が張られてゐる。父母恋しさに彼は人間に化けて鼓のあとをついてゆく。しかし、ふつと狐にもどつてしまふ瞬間がある。それを文楽は、遣つてゐる人形――忠信――を、すいと縫ひぐるみの白狐に取り替へる。あわてて人間にもどるところも、ぱつぱつと縫ひぐるみと人形が取り替へられて、鮮やかといへば鮮やかだけれど、人間の姿に化(な)つたときに、たつた今まで狐だつた名残りのやうなものが感じられない。それで「道行初音旅」は歌舞伎、となつてしまふ。
恋と忠義はどちらが重い、かけて思ひははかりなや
これは幕があいて最初に謡はれる部分で、清元のびつくりするやうな高音域で謡はれる。そして靜の登場。彼女は白拍子といつて、今の藝者さんかタレントのやうな女性なのだけれど、吹輪(ふきわ)といふ大名の息女などが結ふ髪形に銀の花かんざし、赤のきものの上に鴇色の裲襠(うちかけ)というお姫さま風の拵へである。ただ、袖丈がふつうの振袖より短く仕立てられてゐる。これはお姫さまではないことを示したものと言はれてゐる。 「道行」の靜を演ずるにあたつて当代の菊五郎は、「見たところ普通のお姫様のなりをしていますが、義経のご愛妾なのですから、姫であってはいけないといわれるむつかしい役です。」(「国立劇場」八十号)と語つてゐる。わたしはこの時の菊五郎の靜を観てゐる。一九七六年の国立劇場開場十周年記念の興行だつた。もう三十年も前のことになる。菊五郎は七代目を襲名してまだ間のなかつたころとおもふ。若々しくて愛らしい靜だった。
靜(しづか)に忍ぶ旅立ちて、馴れぬしげみのまがひ道、弓手(ゆんで)も 馬手(めて)も若草を、分けつつ行けばあさる雉子(きぎす)の、ぱつと立 つては、ほろろけん、ほろろけん、ほろろ打つ、汝(なれ)は子ゆゑに身を 焦がす、われは恋路に迷ふ身の、アヽうらやましやねたましや
さきの「恋と忠義は……」につづく部分である。「靜に」に靜御前の「靜」と、形容動詞の「しづかに」を懸け、ひつそり人目を忍んで出立し、迷ひさうになりながら薮めいたところや野道をたどりゆく、その野から飛び立つ雉から「焼け野の雉子」が喚起され、そこから子と恋人と違ひこそあれ、相手をおもふ切なる情が呼び出される。中世や近世の謡ひもの、語りものによく見られる手法だが、現代の構文に慣れた者には、まばゆく見える。
舞台にもどらう。 菊五郎の靜は、品よくこの部分を踊つたあと、供をしてゐた忠信が見えないことに氣づき、ひとりうなづいて背に負うてゐた紫の包みを解いて鼓を取り出す。忠信の姿を見失つたとき、この鼓を打つと必ず彼があらはれる。何やらふしぎ、さうおもひつつ靜は鼓を打つ。花ざかりの吉野の山々に澄んだ鼓の音が谺する。と、「来序(らいじよ) 」といつて、狐の出るときの鳴物が、「テンドロドロドロドロ」と鳴り、「すつぽん」(花道の本舞台寄りに設けられたセリの装置)から、ゆつくり忠信がせりあがつてくる。 まづ、狐のとがつた耳をあらはすといふ高やかに結びあげた蝶結びのやうな元結が見え、青い月代(さかやき)が見え……。 わたしはその時、すつぽんに近い席にゐたのだけれど、スローモーションのシーンを見てゐるやうな氣がした。身体中がぞくぞくして来た。忠信が全身をあらはすまで、ぢつと息をつめて見つめてゐた。 忠信は目を伏せたまま、せりあがつてきた。鼓に聴き入つてゐるからであらう。ややあつて、ふつと氣がついたやうに目をあげた。目尻に差した紅が匂ふやうだった。おもはず「恰好(かつこ)いい」と小声が出てしまつた。と、それが忠信、いや、二代目松緑の耳に入つたらしい、切れ長の大きな目でちらとこちらを見た。足元からへんな声がしたのをとがめてゐる目ではなかつた。「聞えたよ」、そう応へてくれた流眄(ながしめ)だつた、と、今もわたしはおもつてゐる。 忠信は何かを振りはらふやうに首を振つた。初めの二度は狐の心で、あとの一度は人間の心で振るといふ口伝があると聞いたが、二つの世界を行きつ戻りつする彼の、自身は意識しない儀式のやうなものであらうか。 「忠信どの、待ちかねました」と、本舞台からおつとり声をかける靜に、「これはこれは静さま、女中の足と侮(あなど)つて思はぬ遅参、まつぴら御免下さりませ」と恐縮の の忠信。「さいはひ、あたりに人目もなし」とつづくせりふは、「道行」によくある恋の逃避行めくが、もちろん、静と忠信の二人の関係は主従であつて、恋人どうしではない。けれど、一方ははなやかなお姫さま風、一方も、黒地ながら裾に大きな源氏車の金の繍(ひ)のある派手やかな衣裳、パッと両肩脱(もろかたぬぎ)すると、燃え立つやうな緋の襦袢が似合ふ若い男、似合ひのご両人といつてよい。浄瑠璃の詞章も、
弥生は雛の妹背仲(いもせなか)、女雛男雛(めびなをびな)と並べて置 いて、眺めに飽かぬ三日月の、宵に寝よとは後朝(きぬぎぬ)にせかれま いとの恋の欲、
と色つぽく、意味ありげである。 それゆゑ、主従であることを忘れぬやうにといふのが、忠信を演(す)る役者の心得とされてゐるといふ。 この「弥生は雛の妹背仲、女雛男雛と……」のところで、靜は両袖を抱くやうにして胸のところで交叉させて立ち、忠信がその背後で両袖を左右にひろげて、立雛の型になる。そこのところを六代目菊五郎は松緑に、「けっして静の後ろに入るなよ。後ろへくっ付くと、訳ありの男女みたいに思われるぞ。だから、蟹じゃないが横から入るんだぞ」と、厳しく言つたといふ(『松緑芸話』)。 けれど、松緑の忠信が遠慮がちに、靜の斜めうしろにやや離れて立ち、それでも両袖を大きくひろげて女雛男雛の型がきまつたとき、こんな佳い男に恋人を預けておいて、義經のばか、二人がどうにかなつたつて知らないから、と、埒もないことをおもつたものである。 しかし、この忠信はやはり狐だつた。このあと思はず鼓に頬ずりをしてしまふ一瞬がある。耐へきれなくなつたのだらう。そこへ手を出した靜を見あげた目が尋常ではなかつた。きらり光った目の凄かつたこと。このとき、彼は紙一重のところで、人間のかたちを保つてゐたのだらう。俺のおとっつぁんおっかさんだ、手なんか出した承知しねえぞ。声にならぬ声で叫んでゐたにちがひない。 彼はやがてその正体をあらはし、親をおもふ情に打たれた義經から初音の鼓をもらふことになる。義經も父母の縁うすく育つたひとだつた。
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