エッセイ

2007/09/12 義經のばか
 それまでに何度か吉野へ行つたことがあつたけれど、いつも冬だつた。みぞれに凍えながら、蕭條(せうでう)と枯れわたつた花なき吉野をあるいたり、西行庵のあたりで凍つた残り雪に足をとられさうになつたりした。
 はじめて花を目的に行つたとき、吉野の山は、下(しも)は花吹雪、中(なか)は花ざかり、そして、上(かみ)は六、七分咲きだつた。「照りもせず曇りも果てぬ」と、古歌の一節が口ずさまれるやうな空だつた。こんなお恵みに与ることもあるのか、とおもつた。
 吉野の櫻は山櫻。シロヤマザクラともいふと教はつた。花の一輪一輪、花びらのひとひらひとひらは、よく見れば萼に接してゐるところが、かすかな薄紅を点じてゐるけれど、白といつてよいだらう。けれど、花よりも一足早く芽吹いた葉のあざやかな紅を映して、しろくて、ものはかなげなはなびらはかすかな紅、さう、淡い鴇色を帯びる。それが風や陽の光の具合で、微妙に翳つたり発光したりする。見飽かなかつた。ただ、ぼうつと櫻をながめ、櫻のなかをさまよひ歩いてゐた。
 あとで氣づいたのだけれど、ほかで見る櫻色の櫻――ソメヰヨシノや八重櫻など――を見てゐるときに浮かぶ、梶井基次郎の「桜の樹の下には」の名高い、

  桜の樹の下には屍体が埋まつてゐる!
  これは信じていいことなんだよ。        

 も、「花よりも濃くにほひ」出でて、「花かげの鬼とのみおもはれよ」と言ひ捨てて闇に走り去つた女(石川淳『修羅』)も、坂口安吾の『桜の森の満開の下』に吹く風も思ひ浮かばなかつた。それに何より花の吉野は、『義經千本櫻(よしつねせんぼんざくら)』の「道行初音旅(みちゆきはつねのたび)」の、まさしく舞台であることを思ひ出さなかつたとは、どうしたことだらう。吉野の櫻は、吉野の櫻として在る、と、おもつた。

 『義經千本櫻』は源義經の都落ちから、吉野山に潜んでゐるのを知られるところまでを描いたものである。竹田出雲、三好松洛、並木千柳の三人の合作で、初演は延享四年(一七四七)、大阪の竹本座でだつた。
 この人形浄瑠璃はたいへんな評判を呼び、わづか半年後には江戸で歌舞伎役者によつて上演されてゐる。今日でも、人気の高い演目の一つで、歌舞伎・文楽(人形浄瑠璃)ともに、よく上演されてゐる。
構成は全五段、それぞれが「口(くち)」「中(なか)」「切(きり)」の三つに分たれてをり、全部、通して観るとしたら何時間かかるか。前半後半を昼の部と夜の部に分ける、あるいは、二ヶ月にわたつての上演といふこともある。それでもカットされる場面があり、歌舞伎の場合、見どころがあつて人気もある一まとまりを切り取つて上演されることが多い。

  実(げ)にも名高き大将と、末世に仰ぐ篤実の強く優(いう)なる其の姿。
  一度にひらく千本櫻栄え久しき。

 これは序段の口「院の御所の段」のしめくくりに謡はれる一節。まだ、義經が落魄の身となる前で、後白河院の御所に凱旋将軍として参上して退出するところである。『義経千本櫻』全篇で「千本櫻」といふことばが出てくるのはここだけである。
 歌舞伎だと、舞台上手(かみて)の二階御簾内(みすうち)から義太夫三味線の音と太夫の声が降つてきて義經を讃へ、舞台では烏帽子狩衣(えぼしかりぎぬ)姿も華やかな義經が見得をする。客席の少なからぬ「判官贔屓(はうぐわんびいき)」をよい氣分にしてくれるところである。残念なことに、文楽はともかく、歌舞伎ではめつたに上演されない。
 「千本櫻」でもつともはなやかで夢見心地にさそはれるのは、「道行初音旅」であらう。『義經千本櫻』と銘打ちながら、舞台が一目千本という吉野の櫻に彩られるのは、ここしかない。
この場、幕が開いただけで、「はぁー」と溜息が洩れるうつくしさ、はなやかさである。背景は、満開の櫻で埋つた吉野の山のゆるやかな起伏を見渡してゐる感じ、蔵王堂の屋根がちひさく描き込まれてゐたりする。吊枝(舞台前面の上部からずらり吊り下げる造花や木の枝)まですべて櫻である。舞台の上手・下手で演奏する清元や竹本の太夫、お三味線まで、櫻模様の鴇色の肩衣(かたぎぬ)といふことが多い。

 文楽と歌舞伎とどちらが好きと言はれると困つてしまふが、この「道行初音旅」にかぎり、わたしは歌舞伎をとる。
 この一幕、靜御前と、義經の家来の佐藤忠信が、吉野に潜伏しているといふ義經を尋ねてゆく、その道中を舞踊劇にしたものなのだが、忠信はじつは狐なのである。本物の忠信が郷里にもどつてゐるのをさいはひ、狐が忠信に化けて靜の供をしてゐるのである。
彼の目的は何か。靜がたいせつに紫のふろしきに包み、背に負うてゐる鼓である。この鼓は、義經が後白河院から拝領し、都落ちの際、靜に預けた「初音」の銘あるもので、その鼓には彼の父母の皮が張られてゐる。父母恋しさに彼は人間に化けて鼓のあとをついてゆく。しかし、ふつと狐にもどつてしまふ瞬間がある。それを文楽は、遣つてゐる人形――忠信――を、すいと縫ひぐるみの白狐に取り替へる。あわてて人間にもどるところも、ぱつぱつと縫ひぐるみと人形が取り替へられて、鮮やかといへば鮮やかだけれど、人間の姿に化(な)つたときに、たつた今まで狐だつた名残りのやうなものが感じられない。それで「道行初音旅」は歌舞伎、となつてしまふ。

  恋と忠義はどちらが重い、かけて思ひははかりなや

 これは幕があいて最初に謡はれる部分で、清元のびつくりするやうな高音域で謡はれる。そして靜の登場。彼女は白拍子といつて、今の藝者さんかタレントのやうな女性なのだけれど、吹輪(ふきわ)といふ大名の息女などが結ふ髪形に銀の花かんざし、赤のきものの上に鴇色の裲襠(うちかけ)というお姫さま風の拵へである。ただ、袖丈がふつうの振袖より短く仕立てられてゐる。これはお姫さまではないことを示したものと言はれてゐる。
 「道行」の靜を演ずるにあたつて当代の菊五郎は、「見たところ普通のお姫様のなりをしていますが、義経のご愛妾なのですから、姫であってはいけないといわれるむつかしい役です。」(「国立劇場」八十号)と語つてゐる。わたしはこの時の菊五郎の靜を観てゐる。一九七六年の国立劇場開場十周年記念の興行だつた。もう三十年も前のことになる。菊五郎は七代目を襲名してまだ間のなかつたころとおもふ。若々しくて愛らしい靜だった。

  靜(しづか)に忍ぶ旅立ちて、馴れぬしげみのまがひ道、弓手(ゆんで)も
  馬手(めて)も若草を、分けつつ行けばあさる雉子(きぎす)の、ぱつと立
  つては、ほろろけん、ほろろけん、ほろろ打つ、汝(なれ)は子ゆゑに身を
  焦がす、われは恋路に迷ふ身の、アヽうらやましやねたましや

 さきの「恋と忠義は……」につづく部分である。「靜に」に靜御前の「靜」と、形容動詞の「しづかに」を懸け、ひつそり人目を忍んで出立し、迷ひさうになりながら薮めいたところや野道をたどりゆく、その野から飛び立つ雉から「焼け野の雉子」が喚起され、そこから子と恋人と違ひこそあれ、相手をおもふ切なる情が呼び出される。中世や近世の謡ひもの、語りものによく見られる手法だが、現代の構文に慣れた者には、まばゆく見える。

 舞台にもどらう。
 菊五郎の靜は、品よくこの部分を踊つたあと、供をしてゐた忠信が見えないことに氣づき、ひとりうなづいて背に負うてゐた紫の包みを解いて鼓を取り出す。忠信の姿を見失つたとき、この鼓を打つと必ず彼があらはれる。何やらふしぎ、さうおもひつつ靜は鼓を打つ。花ざかりの吉野の山々に澄んだ鼓の音が谺する。と、「来序(らいじよ) 」といつて、狐の出るときの鳴物が、「テンドロドロドロドロ」と鳴り、「すつぽん」(花道の本舞台寄りに設けられたセリの装置)から、ゆつくり忠信がせりあがつてくる。
 まづ、狐のとがつた耳をあらはすといふ高やかに結びあげた蝶結びのやうな元結が見え、青い月代(さかやき)が見え……。
 わたしはその時、すつぽんに近い席にゐたのだけれど、スローモーションのシーンを見てゐるやうな氣がした。身体中がぞくぞくして来た。忠信が全身をあらはすまで、ぢつと息をつめて見つめてゐた。
 忠信は目を伏せたまま、せりあがつてきた。鼓に聴き入つてゐるからであらう。ややあつて、ふつと氣がついたやうに目をあげた。目尻に差した紅が匂ふやうだった。おもはず「恰好(かつこ)いい」と小声が出てしまつた。と、それが忠信、いや、二代目松緑の耳に入つたらしい、切れ長の大きな目でちらとこちらを見た。足元からへんな声がしたのをとがめてゐる目ではなかつた。「聞えたよ」、そう応へてくれた流眄(ながしめ)だつた、と、今もわたしはおもつてゐる。
 忠信は何かを振りはらふやうに首を振つた。初めの二度は狐の心で、あとの一度は人間の心で振るといふ口伝があると聞いたが、二つの世界を行きつ戻りつする彼の、自身は意識しない儀式のやうなものであらうか。
 「忠信どの、待ちかねました」と、本舞台からおつとり声をかける靜に、「これはこれは静さま、女中の足と侮(あなど)つて思はぬ遅参、まつぴら御免下さりませ」と恐縮の の忠信。「さいはひ、あたりに人目もなし」とつづくせりふは、「道行」によくある恋の逃避行めくが、もちろん、静と忠信の二人の関係は主従であつて、恋人どうしではない。けれど、一方ははなやかなお姫さま風、一方も、黒地ながら裾に大きな源氏車の金の繍(ひ)のある派手やかな衣裳、パッと両肩脱(もろかたぬぎ)すると、燃え立つやうな緋の襦袢が似合ふ若い男、似合ひのご両人といつてよい。浄瑠璃の詞章も、

  弥生は雛の妹背仲(いもせなか)、女雛男雛(めびなをびな)と並べて置
  いて、眺めに飽かぬ三日月の、宵に寝よとは後朝(きぬぎぬ)にせかれま
  いとの恋の欲、

 と色つぽく、意味ありげである。
それゆゑ、主従であることを忘れぬやうにといふのが、忠信を演(す)る役者の心得とされてゐるといふ。
この「弥生は雛の妹背仲、女雛男雛と……」のところで、靜は両袖を抱くやうにして胸のところで交叉させて立ち、忠信がその背後で両袖を左右にひろげて、立雛の型になる。そこのところを六代目菊五郎は松緑に、「けっして静の後ろに入るなよ。後ろへくっ付くと、訳ありの男女みたいに思われるぞ。だから、蟹じゃないが横から入るんだぞ」と、厳しく言つたといふ(『松緑芸話』)。
 けれど、松緑の忠信が遠慮がちに、靜の斜めうしろにやや離れて立ち、それでも両袖を大きくひろげて女雛男雛の型がきまつたとき、こんな佳い男に恋人を預けておいて、義經のばか、二人がどうにかなつたつて知らないから、と、埒もないことをおもつたものである。
 しかし、この忠信はやはり狐だつた。このあと思はず鼓に頬ずりをしてしまふ一瞬がある。耐へきれなくなつたのだらう。そこへ手を出した靜を見あげた目が尋常ではなかつた。きらり光った目の凄かつたこと。このとき、彼は紙一重のところで、人間のかたちを保つてゐたのだらう。俺のおとっつぁんおっかさんだ、手なんか出した承知しねえぞ。声にならぬ声で叫んでゐたにちがひない。
 彼はやがてその正体をあらはし、親をおもふ情に打たれた義經から初音の鼓をもらふことになる。義經も父母の縁うすく育つたひとだつた。
2006/10/12 いろぞゆかしき
 「藤原定家のやきもち焼き」と言うことがある。原因は『小倉百人一首』である。在原業平には佳いうたがいくらもあるのに、
  千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水
  くくるとは
 などと、どうでもよいうたを撰んでいる。きっと業平に嫉妬しているのだ、恋のうたのライバルとして。
 後鳥羽院の、
  人もをし人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑに
  もの思ふ身は
 も、こんな失敗作を採っているのは、定家のとうてい、ものし得ない、丈高き大君ぶりの詠歌に妬けてのことにちがいない。和泉式部も西行も藤原良経(後京極摂政前太政大臣)も、それからと、数えたてたい例はほかにいくらもある。
 「百人一首」に当然入るべき歌人が落ちているのも、定家さんのやきもちのせいか、はたまた、何か含むところあってか。
 「百人一首」の草稿本かとおもわれる『百人秀歌』(実際は百一人)が発見されたのは、極く近年、一九五一年だった。九十七首は「百人一首」と共通するが、後鳥羽院と順徳院のうたはない。倒幕を図って敗れた後鳥羽院父子の詠歌を百首撰からいったんは除きながら、思い直して撰び入れている、定家のこの心理の変化を追うのはおもしろそうだが、今は措く。
 定家は「百人一首」にこの両院のうたを入れるのと百首にするために、三首を削った。
  夜もすがら契りしことを忘れずは恋ひむ涙の色 
  ぞゆかしき          一條院皇后宮 
 削られた三首のうちの一首である。こんなかなしくてせつないうたを捨ててくれてと、また、定家に恨みごとを言いたくなる。一條院皇后宮は、『枕草子』に才ある魅力的な姿を見せている、あの中宮定子のことである。
 このうたは『後拾遺和歌集』の「哀傷」の巻の冒頭にあるもので、それには、「定子の宮が亡くなったあと、帳台の垂絹の合せ目の紐に結びつけた文が見つかった。それに帝の御覧に入れたげに歌が三首書かれてあったそのうちのもの」という詞書があり、宮の辞世のうたで、しかも、夫である一條天皇への遺言でもあることが知れる。 
 詩歌を現代語に置き換えるなど愚の骨頂、佳い作品に泥をなするようなものと知りつつ、うたを、現代語訳してみる。
  いついつまでもと、一晩中お約束あそばされた
  のをお忘れでないなら、亡くなったわたくしを
  おもうてお泣きくださりましょうか。その御涙
  の色はどのようなものでございましょう。
 「涙の色」は悲嘆の極みには血の涙が流れるということを踏まえたものだが、宮のこのうた、上の句はともかく、下の句の〈恋ひむ涙の色ぞゆかしき〉が絶妙である。いとしいひとを置いて死にゆく悲しみのうちにも、残される相手のなげきを思いやるいたわりの情(じょう)がこもっている。さらに、うっすら紅を刷いたように、愛されてあるという自負がただよい、おそらく宮は自覚していないであろう媚態めいたものも、かすかに感じられる。わずか十四音に、複雑な心理の襞がみごとに詠みこまれていて、宮の才とともに、古語の表現力ということも、あらためて思わされる。
 光源氏の母桐壺更衣は、帝より年上であろうと話し合ったことがある。病篤くなって内裏を退出する更衣を、帝は永久の別れになってしまうかと、なかば取り乱して退出をゆるさない。そのようすを、「女もいといみじと見たてまつりて」=「帝のごようすを、ほんとうにおいたわしいと存じあげて」とあるのは、年上の女らしい相手への思いやり、と読めないか――。
 定子の宮も、帝より四歳年上だった。わたくしがみまかりましたら、お泣きあそばすでしょう、それがおいたわしくて――。〈恋ひむ涙の色ぞゆかしき〉には、年上の女ならではの、ふうわりくるむような優しさもあって泣かされる。
 宮が亡くなったのは三人目の子を出産した直後のことで、まだ二十五歳という若さだった。
 このころ、二十五歳は厄年とされていたし、出産で命を落す例も少なくなかった。「あはれにもののみ心細くおぼし続け」「われいつまで(自分はいつまで生き永らえられるか)」という『栄花物語』の記述に、宮の、いかにも心許なげな、はかなげなようすがうかがわれ、死の予感があったことも想像される。
 圓地文子に、この〈夜もすがら〉の一首を実に効果的に活かした『なまみこ物語』(一九六五年刊)という小説がある。
 藤原道長が幼い娘彰子を一條天皇の後宮に入れたものの、天皇の定子の宮への愛がゆらがないのに焦り、宮への愛を失わしめようと、女房の一人に宮の生霊(いきりょう)に憑かれた憑坐(よりまし)を演じさせる。やがて嫉妬に狂い、世を呪う宮の生霊のうわさが広まり、それを耳目にした天皇が少なからぬショックを受けたのを見すましたところで、道長はにせ生霊を見せるべく調えたその場に、天皇をつれてゆく。が、そのとき、宮のほんとうの生霊が憑坐に憑いて、今までのわが生霊(いきかだま)と申すものは、みな、にせもの、帝はお心を悩ませ給うなと言い、最後に〈夜もすがら〉のうたを、わが亡きあとの形見にお覚えおきくださりませと、「澄んだ美しい声に二返り」詠ずる。そして、その翌朝、生霊ならぬ現身(うつそみ)の宮から届けられた文の中に、このうたが「水茎のあとうるはしく乱れ書きされてゐた」――。
 『源氏物語』で、葵上に憑いた六條御息所の生霊が、
  なげきわび空に乱るるわが魂をむすびとどめよ
  したがひのつま
 と、われにもあらずさまよい出でるほどの思いのたけを、源氏にうったえて詠ずる場面が思い出される。
 生霊の詠んだうたが、それぞれのドラマに及ぼす影響、効果という点からいえば、『なまみこ物語』のほうであろうか。ついでにいえば、圓地文子の造形した定子の宮は、さまざまの美質を附与されているのだが、みずからの意志を以て生霊になっている精神の勁さ、それが帝の心を安らがせんがためという心の深さゆえか、『源氏物語』の数多の女君の誰ともちがう個性、ふしぎな魅力を、わたしは感じている。〈夜もすがら〉の一首が大きく作用しているからであろうが。
 定子の宮が、自分の死後をイメージするうたを詠んだとき、宮は逆風の中にいた。彼女はすでに、中宮ではなくなっていた。中宮というのはこの時代、在位中の天皇の正配を指すのだが、道長は娘の彰子を中宮にするため、定子を皇后とした。つまり、中宮は今上の新しく正配となったひと、皇后は早くに正配となっていたひと、ということになる。皇后も中宮と同じ、「后宮」ではあるけれど、皇太子妃や中宮にならないうちに死んだ女御に追贈されることもあり、中宮にある華やぎがなく、定子の場合、皇后にむりやり押しやられたという感じである。
 逆風は五年前から吹きはじめていた。定子の宮の父藤原道隆が歿したあと、宮の実家の中関白家の凋落は早かった。辣腕の道長――定子の宮には叔父に当る――の策するところもあったのだろう、父の跡を継ぎ、宮の後楯となるべき兄弟は次々失脚し、道隆の営んだ壮麗な邸は一夜、火が出て烏有に帰した。折りも折り、第一子を身ごもっていた宮が宮中から下がって滞在していたとき、しかも頼りとすべき兄と弟は遠国に流されているときだった。この邸焼亡にも道長の黒い影を見る人は少なくない。
 身ごもって内裏を退出するにも、道長の顔色をうかがって供奉する者も少なく、后宮としての体面を保ち兼ねることもあり、加持祈祷のために僧を招じても、すぐ居眠りするような代理を寄越すという有様だった。
 清少納言が『枕草子』に描いた定子の宮やその周辺に、こうした暗雲の感じられないことはよく知られている。
 そのつもりで読んでみても、父の後楯あって、何の憂いもなく時めいていたころと、凋落著しいときとの違いを見つけることはむつかしい。権力者に遮られてなかなか帝に逢えず、殿舎も内裏の外という辛い状況にあるときも、清少納言ら女房は車を仕立ててほととぎすを聴きにゆくなど、四季の風物をたのしみ、訪うて来た才ある殿上人とうたのやりとりに興じたりしている。そしてその中心には、はんなり、定子の宮がいて、女房たちに題を取らせてうたを詠ませたり、ちょっと調子づいた清少をいたずらっぽくからかってみたりしている。
 清少が逆境に在る宮を描かなかった理由はさまざまに推しはかられているが、わたしは清少の心理よりも、定子の宮のそれに興味を抱く。宮は何かにつけて不如意な身辺について、それほど思い煩わなかったのではないか。宮は帝の愛を信じることができた。いとしいとおもうおひとから愛されているという自信が世俗を超え、以前にもまして宮を魅力あるひとにしていたのではないか。その照り返しが清少ら心得のある女房たちにも及んでいたのではないか。
 定子の宮の葬送の夜は雪になった。柩の宮を黄金造りの糸毛の車(糸毛の車は色糸で飾った牛車。それを金の金具で飾ったもの)にお乗せして、鳥戸野(とりべの)に造った霊屋(たまや)にお納めしたが、半時の間に柩の安置所も見えなくなるほど雪が降りに降ったという(『栄花物語』)。天はこよない散華を降らして、宮の死を荘厳(しょうごん)したのであろう。
 この夜、降る雪をながめながら、独り、悲しみに耐えている青年がいた。一條天皇である。
  野辺までは心ひとつは通へどもわがみゆきとは
  知らずやあるらん
 宮の辞世と同じ「後拾遺集」に見えるうた。〈みゆき〉に「行幸」と「深雪」がかけてある。天皇という身分上、愛するひとの葬送に立ち会えない。でも、心だけは行っている。この雪は君を慕うわがたましひ――。〈知らずやあるらん〉は、「気がつかないだろうか」という意味だろうが、「気がついてくださいますね、きっと」と、甘えかかっているようで、せつない。

2006/09/02  『伊勢物語』九十八段九十七段
                  
「むかし、をとこ、ありけり」で始まるごく短い話、それもその多くは恋物語が百二十五(本によって多少ちがいがあるが)、あつめられている『伊勢物語』を、田辺聖子は「恋の見本帳」といっている(『文車日記』)。まこと、少年少女の初々しい恋から、九十九歳の老女の恋まで、「伊勢」には、いったい、いくつの恋が書き分けられているのだろう。
 それらの話の主人公「むかし男」は在原業平であり、物語の作者も業平として、千年も「伊勢」は読み継がれてきた。けれど、現代のわたしたちは、そうしたしあわせな錯覚の中にはいない。この物語の成立事情、実在した業平と「むかし男」の相違といったものが、学者たちによって明らめられてゆくのに従い、『伊勢物語』が、在原業平の作品でも彼の一代記でもないことを、わたしたちは知らされてしまっている。
 しかし、学問の世界はどうあれ、わたしは、后がねの少女を保護者のところから連れ出して逃げたり、逢えなくなった女をおもうて涙にしずんだり、伊勢の斎宮という、男の近づいてはならぬ禁忌の貴女(きじょ)と一夜を共にしたり、とんでもない女に言い寄られて閉口したりしている「むかし男」を、業平ときめて読んでいたい。いや、業平でなくては困るとさえおもうこともある。これが素人の気儘なところであり、また、たのしいところでもある。
 『伊勢物語』は、こうした雅び男、恋する美男子業平(何しろ『日本三代実録』という歴史書に、「体貌閑麗」と、業平と同時代の菅原道真が書いているのだから折紙つきの美男子である)だけでなく、宮廷社会、それも藤原氏に権力が集中しつつある世に生きた宮廷人としての業平の姿も記しとどめている。
 業平は、父は平城天皇の第一皇子、母は桓武天皇の皇女という貴種で、当然、王家の一員であったが、幼いころ兄たちとともに臣籍に降(くだ)っている。これは父阿保親王が王族でなまじ偉材であったために政争に巻き込まれ、太宰府に左遷された自身の苦い経験に基づいての処置であったとも、藤原氏からの強要でやむなく子等を王族から離脱させたとも考えられよう。ついでながら阿保親王は後年、再び政争に巻き込まれそうになっている。このときは密告という手段をとってあやうく難を遁がれたものの、辣腕の政治家に利用される結果となっている。親王は承和の変と呼ばれるこの政変の直後に亡くなっている。自裁説もある急逝だった。業平十八歳のときだった。
 こうした父の子で、藤原氏の血は父方からは一滴も受けず、母方の祖母に傍流のそれが混っているのみという業平が、藤原北家興隆のときを、どう生きたか。

  むかし、おほきおほいまうちぎみと聞ゆる、お
  はしけり。仕うまつる男、九月(ながつき)ば
  かりに、梅の造り枝に雉をつけて奉るとて、
    わが頼む君がためにと折る花はときしもわ
    かぬものにぞありける
  とよみて奉りたりければ、いとかしこくをかし
  がりたまひて、使に禄(ろく)たまへりけり。

 『伊勢物語』九十八段の全文である。「おほきおほいまうちぎみ」は太政大臣、律令制の最高官であるが、この太政大臣は、藤原良房と考えられている。良房は、阿保親王の密告を奇貨居(お)くべしとばかり、大きな政変に仕立て、政敵を一掃した人物である。しかも、のちには孫の清和天皇の後宮へ、業平がひそかに相逢うていた女人高子(たかいこ)を、むりやり送りこんだ人物でもある。
 「仕うまつる男」は業平として不都合はなかろう。むしろこの段の場合、業平でなくては、ただ変なお話で終ってしまう。「仕うまつる」といっても、べつに良房の家人というわけではなく、太政大臣に対して部下という意味で、お仕え申すという言い方になったのであろう。ちなみに良房が太政大臣であったのは、業平の三十三歳から四十八歳の十五年間に当るが、官位は従五位下から従五位上とほんのわずか上がっただけ、低い官位に低迷している。よほど、この権力者から嫌われていたものと見える。
 その業平が、九月ころに造りものの梅の枝に雉をつけたものを使いに持たせて献上した。「わたくしがお頼み申すあなたさまの御ためと折りました花は、時節にかかわりなく、こうして、いつもいつも、咲いていることでございます」といううた(「ときしも」に雉が詠みこまれている)を添えて。
 一応、「わが頼む」などと、しおらしげなお追従口を人並みに利いているように見えるが、そうだろうか。皮肉、いや、毒なども仕込んでありそうな気がする。
 だいたい、この献上物はすべてちぐはぐ、奇妙なものである。九月秋たけなわの候に梅を贈ったのは、「ときしもわかぬ」、いつでも咲いているということを言いたいためであろうが、ならば藤家の象徴たる藤にすべきをわざと外している。また「梅に鶯」と言わぬまでも不似合いな雉をもってきている。梅だけでなくこの雉も造りものだったのか。造りものだったら「しろがね」などと素材が書かれていそうなものである。そうでないところを見るとほんものの雉だったのだろうか。それともほんものそっくりに造られたものだったのか。気持ちわるい。
 鷹狩りのみやげものなどに、狩った鳥を何かの枝に むすびつけて贈ることはめずらしくなかったようである。『源氏物語』にも、
  左衛門尉を御使にて、雉一枝奉らせ給ふ。
  ――(鷹狩りの場から)左衛門尉を御使にして
  雉一枝(雄を上、雌を下につけたもの)を差し
  あげられました。         「行幸」
  野にとまりぬる君達、小鳥しるしばかりひきつ
  けさしたる荻の枝など苞(つと)にして参れ
  り。
  ――(鷹狩りに行って)野で旅寝した若殿は、
  小鳥をほんのしるしばかり結びつけた荻の枝を
  おみやげに参上しました。     「松風」
 などと、見える。
 それにしても造りもの本物を問わず、「九月」、「梅」「雉」という取り合せはいかにも異様(ことよう)である。雉は秋のものでも梅の季節のものでもない。雉は、冬行われる大鷹狩り――大型の鷹を使い獲物も大きいものが対象とされる――で狩られていたようで、例にあげた「源氏」の雉の献上も季節は冬であり、九月という季節に合わすなら小鷹狩りで、とすると雉は狩りの対象にならない。
この、でたらめぶりは意図してのものにちがいない。何か、わたしの知らない故事などが隠されているのかともおもう。また、この、春、秋、冬ごちゃまぜの贈りものに夏が缺けているのにも、何か意味があるのかもしれない。それとも、夏を、使いの者の装束ででもあらわして、四季を揃えて、悪趣味ぶりを徹底したか。 
 ともあれ、この取り合せは現実にはあり得ないものである。そこに、みんな嘘でたらめという寓意を籠めたとしたら、たいへんな悪意を相手に突きつけたことになる。
 さて、奇妙な贈りものをつきつけられて良房はどうしたか。「いとかしこくをかしがりたまひて」云々は、良房ほどの人物が、単純に興がりよろこんだとはおもわれない。業平の底意を知りつつ知らぬ顔をしたのか、業平の演技、見抜いたぞと、ことさら大仰に「いとかしこくをかしがりたま」うて見せたのか。
 じつは、この「仕うまつる男」が詠んだとある〈わが頼む〉のうた、「古今集」に初句を〈限りなき〉としたものが載っている。作者は不明だが、「ある人曰く、この歌は「前大臣(さきのおほいまうちぎみ)の也」という左注がある。前大臣というのがいつの時点で言ったものかがはっきりしないので、この人とさだめられないが、良房にせよ、その養子基経(あの、高子の兄である)にせよ、その人の詠と伝わるものを一部変え、「仕うまつる男」=業平のものとして、一つの短編を創ったのは誰だろう。業平自身か。
 この前の段、九十七段にも、業平とおもわれる人物が、時の権力者に賀歌を奉っている。

  むかし、堀河のおほいまうちぎみと申す、いま
  そがりけり。四十の賀、九条の家にてせられけ
  る日、中将なりける翁、
    櫻花散りかひくもれ老いらくの来むといふ
    なる道まがふがに

 これもこの段の全文である。「堀河のおほいまうちぎみ」は藤原基経。彼の四十の賀に祝いのうたを詠んだ「中将なりける翁」=業平は五十一歳、死の五年前である。
 このうたは「古今集」にも業平作として載っているが、落花のかもし出す不吉な感じに眩むおもいがする。ことばとはうらはらに、散りに散る落花の底から老い、というより死が姿をあらわして来そうである。
 これも一応、賀のうたとなっている。けれど、「散り」「くもれ」「老いらく」など、不吉なことばがいくつも重ねられており、結句を見るまでは、何とも薄気味わるい感じがする。結句にしても「まがふ」ということばは、めでたいといったおもむきのことばとはおもわれぬ。
 致し方なく賀歌を詠んでさしあげはするけれど、といった、業平の意志が透けて見える。透けて見えるように彼は詠っているのだとおもう。けれど、結句でくらり、ひっくり返して見せ、賀歌にはなっている。それゆえ、贈られた側はとがめだてすることもならない……。
 呪詛ともなりかねない賀歌を贈られた基経は、このとき、どうしたか。腹の立つのを抑えて鷹揚に「いや、みごと」と言ったか、苦虫を噛みつぶしたような顔つきでふいと横を向いたか――。
 「むかし男」の、老いたりといえど衰えを知らぬ不羈の精神、読んでいて快い。些かの苦みも、また。



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