深夜独語

2007/02/24 湖上の月
  物語にはしづかなる一夜ありて源氏が湖上の
  月を見てゐる

 稀にうたが向うから来てくれることがある。ふつと頭に浮かび、初句から結句まで、できあがつてゐる。このうたもその一首である。
 べつに『源氏物語』を読んでゐたり、光源氏のことをおもつてゐたわけでもない。言へば、ごちやごちや、くだらぬこと、つまらぬことに心を乱されて、こゝのところ、わたしには「しづかなる一夜」がないといふことだらうか。
 しかし、『源氏物語』に、源氏が湖上の月を見る場面があつたらうか。思ひ浮かばない。

須磨にはいとゞ心づくしの秋風に、海はすこし遠けれど、行平の中納言の、関吹き越ゆると言ひけん浦波、夜夜(よるよる)はげにいと近くて、またなくあはれなるものは、かかる所の秋なりけり。

 紫式部は琵琶湖畔の石山寺から月にかゞやく湖面を見て想を起し、『源氏物語』の「須磨」のこの一節を書いた、あの長篇小説はこのくだりから書き始められたという伝説がある。
 さうしたことも、どこかで影響して、源氏が湖上の月を見てゐることになつたのかも知れない。

2007/02/03 
 「麦の穂をゆらす風」
 こゝのところ、映画づいてゐる。大晦日から昨日までに七本の映画を観た。うち六本は往復三時間以上かけて出かけてゆくのだから、われながら呆れてしまふ。
 七本の映画は、それぞれ、作風も主張も千差万別だけれと、共通するのは、深浅の差こそあれ、人間に対する「かなしみ」――「愛しみ」「悲しみ」だつた(これ、映画に限つたことぢやないけれど)。
 昨日観た「麦の穂をゆらす風」、この映画の制作が去年であること、そして、それが今、上映されてゐることの意味は大きい。急いで書いておきたい。
 一九二〇年代のアイルランドが舞台。当時のアイルランドはイギリスに支配され、苛酷な搾取ばかりか、アイルランド独特の言語も文化も禁じられ、英語での返事を拒絶した者は拷問されたり殺されたりするといふ、圧制下にあつた――。といふと思ひ出す、戦前の日本が朝鮮や台湾に対しておこなつた圧制を。
 映画は若者たちが庭先で、ハーリング(ホッケーに似た、アイルランド独特の競技)をたのしんでゐるところへ、イギリスの治安警察隊がやつてきて、禁止の競技をしてゐたことを咎め立てゝ口汚く侮辱することばを吐きちらし、暴力をふるひ、果ては英語名を名乗らなかつた十七歳の少年に暴行を加へ殺してしまふ。つひにアイルランドの青年たちは独立を目指して立ちあがる。
 武器に於いて、兵力に於いて劣るアイルランドの義勇軍は苦しい闘ひの末、イギリス軍を撤退させ、休戦に持ち込む。けれど、イギリスから示されたのは、アイルランドを自由国として認めるとはいふものゝ、利権はいつさい手離さず、イギリス国王は総督として君臨し続けるといふ条約で、その上、北アイルランドは自由国から切り離してイギリスに帰属させるといふものだつた。
 一枚岩であつたアイルランド独立運動者間に、この条約めぐつて亀裂が入る。完全なる独立でなければ戦つた意味がないと言ふ者と、いや、これ以上戦ふ余力はない。不満はあるが妥協しようといふ者と。そして、つひに、昨日の友は今日の敵、おぞましい同士討ちの内戦が始まる。
 さう、今の中近東の、アフリカのルワンダなどの、惨状と、何、異なるところない。武器商人の介在がちらつくあたりもそつくりである。
 良心に従つて身命を抛つて戦ふことは、即ち、人を殺すこと。それが、ともに遊び、ともに同じ理想をかゝげて戦つた友人を、今度は敵としての戦ひとなれば、その苦悩ははかりしれない。青年たちの心はぼろぼろになつてゆく。例へ、戦ひに勝つても、この青年たちに安寧は訪れまい。傷み病んだ魂をひきずつて、どう生きてゆくのだらう。
 アイルランドの青年たちが独立の狼煙(のろし)をあげてから八十余年、アイルランドとイギリスの関係は今以て、当時と大差ない。

 こゝまで言つてしまふのは、映画紹介の記事としては「ネタバレ」とされ、つゝしむべきことなのだけれど、何、こんな紹介文ごときで、鑑賞をさまたげられるやうなヤハな映画ではない。是非、多くの人に観ていたゞきたい。
 「麦の穂をゆらす風」で検索すると、この映画のタイトルとなつたアイルランド伝統歌が流れ、うつくしいスチール写真、その他を見、聞くことができます。泣けちやふと思ひつつ、無伴奏のアルトを聴いては眼を拭いてゐる。

☆ 大晦日から昨日までに観た映画(観た順)。
 ・奥田瑛二監督の「長い散歩」
 ・ステファヌ・ブリゼ監督の「愛されるために、ここにいる」(原題の 直訳らしいが、やぼつたい邦題)
 ・奥田瑛二監督の「るにん」  
 ・アニエスカ・ホランド監督の「敬愛なるベートーベン」(ヘンな邦題。原題は「Copying Beethoven」。
ベートーベンの写譜師――作曲したばかりの楽譜を清書する人――がヒロイン)>
・チャン・イーモウ監督の「単騎、千里を走る」。
 ・実相寺昭雄はじめ十一人の監督によるオムニバス映画「ユメ十夜」。 
 ・ケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」。

 どの映画も喋りたいことがいつぱい。
2007/01/27 おぢいちやん
 コォーンと啼くのは源九郎狐、ぼーんと鳴つたのはおぢいちやん。おや、今日は合つてゐる、と思つたら、きつかり一時間の遅れでした。
時計の大好きな弟がゐて、家中、時計だらけ。その弟が骨董屋で手に入れて姉貴にくれたのが、この古時計なのです。
 ねぢを巻きたては韋駄天走り、誤差は一年に二分だ、三分だなんて几帳面な電気仕掛けの連中を後目(しりめ)に、つつ走る。ぼんぼんぼんと音も歯切れよく威勢がよいが、長針が?のところに来たときに鳴るとは限らない。けつこう気まぐれ。
 やがて息が切れて遅れる、遅れる。時を打つ音も気息奄々。
 動かなくなつて、あはや御臨終かと、デパートの時計売場にかつぎこんだことがある。しかし、鄭重にお断りされた。でも、見捨てるにはしのびなくて、少し離れた古い街の時計屋さんに持つていつたら、「あたし、かういふの大好きで」と、老店主がほくほくあづかつてくれた。
 修理にだいぶお骨折りをかけたやうだつた。もう、なくなつてしまつた部品を手作りして修繕したといふ。
 「御年百歳のぢいちやんだ。うごくだけでも御の字だよ。大切にしな」
 と言はれたつけ。
 草木もねむる丑三つ時に、おぢいちやんのちよいととぼけたぼーん。わるくはない。


2007/01/17 
 なさけなや、お正月早々、不整脈、頻脈に襲はれてしまつた。お医者さんからもらつたお薬があるのだけれど、あまり服みたくない。これを服むと不整脈も言ひやうのない不安感も消えるけれど、無気力になつて、ただ、ぼやーんとしてゐるだけになつてしまふ。何もしたくない、何も考へられない。そのうち、お薬を服まなくても、かういふ、ぼやーつとした状態が続くやうになり、目が醒めてゐるのか睡つてゐるのか、生きてゐるのか死んでゐるのか、判らぬやうになつてしまひさうで怖い。
 頑張つて、読みさしの高島俊男のエッセイを持つてベッドに転げこんだけれど、ダメ。たのしく読んでゐる辛口エッセイ「お言葉ですが」シリーズの一つといふのに、一向に頭に入つてこない。そのうち、手足の爪先が冷たくなつて来る。不安感と不整脈・頻脈はつのる。たうとう、薬のご厄介になつた。
 直径五ミリほどのころんとした白い錠剤一粒の効き目はあらたか、いやな気分からは解放され、不整脈も頻脈も消えた。が、無気力人間が一人、意味無くソファーにぼんやりしてゐる。

 「がかいがないんだから無理しちやだめ」と母によく言はれた。「がかいがない」、あまりほかの人から聞いたことのないことばを、わたしは何となく、「体力がない」といふやうに受け取つてゐたが、さうではなかつた。見た目の大きさ、嵩、を「がかい」といふらしい。たしかにわたしはチビで、人体としての嵩もない。まちがつても太めの仲間には入れてもらへない。よく貧血を起して倒れた。
 と、いふと、なよなよした風にも耐へぬ手弱女(たをやめ)のやうだけれど、それは小娘のころのこと、今や、百戦錬磨のツハモノとこそ言はね、修羅場も幾度かくゞり抜けて来たし、いざとなれば、火事場力も出せるしたゝか者であります。
 そのしたゝか者も、少々くたびれたらしい。病院から脱走して来た片手、片足不自由な相棒にそれほど手がかゝるわけではないが、やはり、一人半ぐらゐの動きはせねばならず、もともと、火事場力といふ瞬発力は出せても、長丁場はもたないタイプである。怠けることにしました。
 さりながら、年賀状も出してない。宿題も溜つてゐる……。 

2006/12/28  脱獄に成功せり
 相棒の強引なこと。お医者さんは年内は病院にゐなさいとおつしやるのを、病院でしてゐるくらゐのリハビリなら家でも出来ると言ひ張つて退かない。根負けしたお医者さんのせりふがふるつてゐる。 「刑務所ぢやないんだから、むりやり引き留めるわけにもゆかない」
 つひに脱獄に成功し、家に戻つて来た。
 脱獄囚は首にタガの如きものを嵌め、右手は包帯、左足には歩く練習用の靴みたいなものを履き、そして松葉杖。ふだんから何て不器用なんだろ、と思つてゐたが、松葉杖がかへつて邪魔さうな歩きかたをしてゐる。右目のあたりはまだ腫れてゐて目がカタビッコ。オデコの手術のあとが五センチくらゐのゲジゲジみたいになつてゐて痛さう。
 右手がまだ不自由なので、パソコンはぽつりぽつりと打つてゐるが、口だけは達者なので、電話であつちこつちに脱獄のご挨拶なんかしてゐる。
 脱獄を祝つてワヰンで乾杯。脱獄できるまでに治療してくださつたお医者さん、よく面倒を見てくださつた看護婦さん、ヘルパーさんたちに感謝して乾杯。


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